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日本デザインセンターでアートディレクター、グラフィックデザイナーを務める荒井康豪さんに、アートやデザインにまつわる話を語っていただきます。第5回目のDDTN(どっかのだれかのとんでもないなにか。)は荒井さんが最近観た演劇についてです。

演劇を観た。
すべてが表現されているようで、うらやましくなった。そんな話をしたいと思う。演劇について語れるほどの専門家ではないが、それ故なのか、観る度に相当な刺激を受ける。どんな風に作りあげているのかと想像すると気が遠くなる。

おそらく、演劇の持つドキュメンタリー性にやられるのだろう。
演劇はフィクションであるが、その中に本物がある。役者に役が憑依して、役自体の息づかいを感じるのだ。一方、筆者の主戦場である広告の世界には通常、本物と言えるものはない(こんなこと言っていいものかどうかわからないが)。
 
たとえば、モデル撮影の時、モデルから笑顔や表情を引き出すために「今日の朝、何食べた?」とか「どこの国から来たの?」とか、そんなやりとりが行われるのだが、制作物になった時の設定は、商品を手にとって喜んでいるといったものだったりする。そもそも、商品があって二次的に発生している広告と、表現そのものである演劇とでは根本が違うのだが……。
 

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撮影/橋本倫史

話を元に戻そう。
今回観たのは「マームとジプシー」という劇団の「ヒダリメノヒダ」という演目である。主宰の藤田貴大は、3年ほど前に26歳で岸田國士戯曲賞を受賞し、つい最近、50歳年上の蜷川幸雄から脚本を依頼され、話題になっている逸材である。
 
この劇団は言葉自体を意識したセリフ、その言葉の繰り返し、さらに同じシーンを何度も繰り返すリフレインが特徴的である。これは時間が流れていくことや、それによって何かが忘れられていくことに納得がいかず、抵抗する手段として用いられているらしい。この時間、この場所で繰り広げられる世界のための法則は、全く自由に設定されているのである。
 
突然だが、街を歩いていてふいに漂ってきた香りに、小さい頃に嗅いだことある気がするけど、それが何なのか全く思い出せなかったという経験はないだろうか? 香りのデジャヴというか……。感覚的な話だが、筆者はそういうものをいつか表現したくてデザインの仕事をしているのではないかと漠然と考えることがある。そして、マームとジプシーの舞台ではそれができているような気がした。この演目、藤田氏の幼き日の原風景が元となっているのだが、そのあたりの再現の仕方が見事なのである。
 

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撮影/橋本倫史

また、役者の頭上にスクリーンがあり、その場で撮られた別アングルの映像が流される演出が登場する。筆者の仕事にあてはめると、まるでインタラクションの要素をもった映像と、ベストな状態で途切れなく続くスチール撮影の現場がとても高いクオリティかつライブで進行しているような感じだ(またまた分かりづらくてすみません)。
 
筆者の日常は、いろいろな事情があって作り物を追いかけ続けているが、演劇は、作り物を超えたところにある“本物”に触れようとしているのではないだろうか。学ぶべきところはとても大きい。できるなら、演劇の世界に入って、そこでもデザインしたいと思うほど刺激を受け、演劇がうらやましいと思った舞台であった。

(Profile)
荒井康豪
アートディレクター/グラフィックデザイナー。1974年東京都生まれ。
2003年より日本デザインセンター在籍。主に企業のブランド構築のためのクリエイティブを展開。
平行して実験的なグラフィック作品の制作、発表もおこなう。
ONE SHOW DESIGN金賞・銀賞、D&AD NOMINATION、ニューヨークADC銀賞など。

http://www.yasuhidearai.com

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